メジュレチェ
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メジュレチェ(セルビア語:Međurečje[ラテン文字],Међуречје[キリル文字])はセルビア共和国内にあるボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人が主体で統治をしているスルプスカ共和国ルド県の飛び地である。
・歴史と発生理由
発生理由は詳しくはわかっていないが、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦での民族浄化や土地交換で作り上げられたものではないことは明らかで、メルボルン大学のヴェルダン・ホワイト博士によると「発生した理由は不明だが、住人によるとオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の時代に遡る。ベルリン会議によりオーストリア=ハンガリー帝国にボスニア・ヘルツェゴビナの併合が許可されたことにより、オスマン帝国と国境を接することになり、その後当時の所有関係からオスマン帝国がラシュカ地方まで撤退したあともその中にオーストリア=ハンガリーの土地が取り残されたのではないかと考えられる。その後第一次世界大戦やユーゴスラビア崩壊など独立したあともその境界線が残ったのではないか?」と述べている。1980年代に解決策について話し合いは進んでいたようだが頓挫した。2001年、当時のセルビア=モンテネグロ政府は解決に向けてボスニア・ヘルツェゴビナ政府との話し合いが数回に渡り行われた。セルビア=モンテネグロは領土交換を行い補償も含めた利益になるような提案を行ったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は回廊を設置してもらうという提案を行ったため交渉は難航してしまい、妥協案として地税のみはボスニア・ヘルツェゴビナに納めるという方針を取った。解決すべきという議論もでるが現在もそのまま放置という状況になっている。民族浄化に関してはこの地域では起こっていない、そのため民族の融和・和解を象徴する村として現地住民の中では話題らしく、放棄されたモスクも再開された。
・国境警備と生活・様子
入国審査は一切なく飛び地の統治はセルビア共和国政府に一任されている。飛び地の入口にボスニア・ヘルツェゴビナの国旗🇧🇦とスルプスカ共和国の国旗が掲げられてるだけである。ただし、ユーゴスラビア時代にセルビア側にあるサスタヴチ村とメジュレチェ村はほぼ一体の自治体であったため、ユーゴスラビア解体時に自分の国籍がどっちなのかわからなくなる事態が発生した。更にはメジュレチェの人々は近くにあるプリボイ市に行くのにも身分証明書を持たなければならず、地元住民は不便している。二重国籍の人もいるが、選挙権はセルビアの選挙権をメジュレチェの住人は所持している。現在も国境は確定しないままでボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの軋轢がまだ残っているため、解決の糸口が未だ見えていない。このため道路は舗装されておらず今もそのままである。税金事情がややこしく税関に領収書を求められるため下手に買い物もできないようだ。通貨はユーロか兌換マルク(ユーロとペッグされておりボスニア・ヘルツェゴビナで公定通貨)が使われている。人口は2013年の調査で173人が住んでいる。税金は前述したとおりボスニア・ヘルツェゴビナに納められている。生活インフラは全てセルビア側が提供しており、住人はセルビアの市民権も持っており実際にセルビアの省庁に働いている住人もいるようだ。高校生はセルビア側で学び、就労もセルビアで行っている。現在は高齢化が進み、若者はセルビア側の都会に出ていっている。
・参考文献
https://web.archive.org/web/20050224122132/http://article.gmane.org/gmane.culture.discuss.boundary-point/4656
https://youtu.be/BwMv1AH-DPU ーメジュレチェの様子
https://www.bbc.com/serbian/cyr/balkan-69314084
https://www.rts.rs/vesti/drustvo/3223079/sastavci-i-medjurecje-susret-biblije-i-kurana-.html